神社のその後
コロナの前に事務所を移転して良かった
勘が働いたのでしょう、大分市の事務所を自分の自宅に移した方がよいという勘が働いたのです。妻が毎日のように、車の移動も大変だし倅も大分市に住むようになったし、第一毎日、講演の仕事を受けなくてよい環境になりました。いかに人生で子供を育てる、「生きる力を与える」のに動力とお金がかかるかを痛感した大分市での生活でした。がむしゃらに働いた大分市の事務所の生活に一応の限をつけることにしました。
10年間の大分市の事務所生活を終えて、自宅のある宇目町に移転しました。その後に新型肺炎蔓延、コロナ生活で、仕事が全くない生活が約3年間続くのです。
息子が大分市に返ってきて、月日が経ちました。
この10年間で、矢野家にとってとてもうれしいことがありました。それは息子が結婚をしたことです。職場で知り合った女性と結ばれました。本当に感謝ですよね、しかも驚いたことは、彼女が「神社の宮司の娘さんだった」という事です。偶然そうだったとのことですから、お互いの家の職業を言い合ったときは大いに驚いたそうです。大分の神職界でも「神様はいる」となりました。
さらに有難いことに息子に息子がうまれました。子育ての最中でありながら、私が忙しい時は神事を手伝ってくれます。私の家と彼が住んでいる大分市は車で90分かかります。昔から考えると随分近くなりましたが、それでも通える距離ではありません。
孫の教育を考えると
「将来どうする」と相談すると「田舎では子供の教育ができない」との答え、たしかにその通り、60年前、私の同級生は100人以上いました。息子の同級生は29人、さらに孫になると一桁です。息子のいうのものよくわかります。
結論は生まれ育った、この家には住まない、将来返らないで、大分市から神事がある時毎に返ってくるというゆうことになりました。将来は大分市に家を求めることになるでしょう。
従弟に白羽の矢
そこで、私を手伝ってくれる人が他に近くにいることが、必要という事になり、私の母の里(実は母と父は幼馴染で、歩いて5分のとこから嫁に来ているのです)母の弟の子供が住んでいる、その私にとって従弟にあたる者に相談にいきました。その従弟が神事に非常に興味をもち、神職研修に行って「資格」を取ってくれました。有難いことに、いまでは私の代わりに神事によくいってくれ私は非常に楽になりました。神社だけでは生活が出来ないことは最初から理解をしてくれていますから、非常に相談がしやすく私も息子も本当に助かっています。ただただ感謝です。
中継ぎの仕事
息子の仕事が定年になり、現役を止めるまで、中継ぎの神事をしてくれる人がいることは有難い、しかも従弟ですからとても話しやすいですし、将来どうすべきかのアイデアを一緒に出してくれ、一番の相談相手になってくれいてます。息子との人間関係も良好なので心配はありませんし、とにかく真面目なので従弟の方が私より神職に向いているように思います。すこしですが報酬をあげていますから、彼の生活に少しでも役立ってくれているといいのですが・・・・・・
継ぐことの重み
矢野家は私で37代続く社家ですが、子息が若くて後を継げる迄、後見人として育てていることが過去にもあったようで、令和の時代に活用された形です。元宮、639mの山頂にあり、自宅から40分車でかかります。さらに先祖は3代まで、麓の真弓地区、さらに柳瀬地区に住み、そして19代で筬河内地区に移り、31代で現在の私が住んでいる所に引っ越したことが、記録で残っています。息子で38代になります。先祖と血が繋がっている確証は有りませんが、後見人制度で、鷹鳥屋神社の神職は守っているようです。その重みを、私も倅も感じているから、お宮を継いでいる次第です。
宇目町には神職の家柄が5家ありました、いかに昔は神事が多かったが分かりますよね、その家々が徐々になくなり、矢野家が全てを引き受ける事に成りました。私が帰省して10年後、隣の地区の宮司さんが亡くなり、私が引き受けることになったのです。それくらい田舎のお宮は後継者が少ないのです、守るのが大変なんです。
現在は宇目地区で神社が50社あり、矢野家が神事をさせてもらっています。大分県で一番多い神社を兼務しています。大変です。さらに神葬祭といって神式でお葬式をする家がありその神事も行っているのです。
従弟、息子と相談して、私の残り時間をかけて「祖霊社」「鷹鳥屋神社分社」「納骨堂」「自宅跡の公園化」の事業を最後の仕事としていこうと思っています。私の人生いよいよ残り15年です。
